CAR CARE JAPAN

KENJI HIRAGA

株式会社 CAR CARE JAPAN平賀健史

平賀取締役のインタビューを通じて感じたのは一貫性。 これまでの仕事の仕方、ものの考え方、本当に筋が通っている。 楽をすること、得をすることに流されがちな考えを持っている人は一瞬で見抜かれてしまうだろう。 それだけブレがないのだ。まっすぐに車好き、まっすぐにレースが好き。貫き通す背中をこれからも見ていたい。

車に関するプラットフォームを一つ設けて、どの切り口から入ったとしても、車をより身近に感じてもらえるようになったら良いなと思っています。

レース参戦されているのですか?
ドライバーの方ではなく、エンジニアとかメカニックですけどね。 小さい時から車が好きでね、僕が十代の時は富士フレッシュマンレースにもメカニックとして参戦しました。 兄が富士フレッシュマンレースに出たいと言いだして、兄の買ってきた中古のレーシングカーを色々メンテナンスやセットアップをして出場した感じです。 出身が静岡の清水なんですけど、家の近くにレーシングガレージがありまして、そこに入り浸っていたんですよ。 中学生くらいの時は親に「夜釣りに行ってくる!」なんて言って自転車で家を出て、何時間もかけて富士スピードウェイに行ったりしていましたよ(笑)
本当に小さい頃から車好きだったのですね!
そうですね。不思議と乗るほうではなく、走らせるほうに興味がありました。 僕の周りはみんなファミコンとかに興味がある年代だったんですけどね、読んでる本も車の本ばっかり! 粗大ごみにされていた原付バイクを拾ってきて、エンジンが壊れていたものをバラバラにして直してエンジンがかかるようになったら、それを乗り回して怒られるという(笑)
探求心の深さはその頃に培われたのでしょうか?
最初のうちは「どうしてエンジンがかかったんだ?」と思ったんですけど、そこの根底がわからないのが嫌だったんですよ。 今みたいに検索して出てくる情報が無かったので、図書館に行って専門書を読み漁りました。 バイクもエンジンがついている乗り物というカテゴリーとしては好きですけど、やっぱり自動車の方が格段に興味をそそられましたね。
最初はどのようにして車業界に入られたのですか?
とにかく早く免許がほしかったので、原付の免許を取って停学とかにならないようにひたすら教習所に通える日を待っていたんですけど、その頃からレーシングガレージの手伝いはしていたので、スタートはそのレーシングガレージなんじゃないかな?
そこでアルバイトをされていたんですか?
アルバイトといえるような感じではなく、とにかくガレージに行って「何かやらせてください!」って頼んでたんですよ。 そうするとそこの先輩メカニックが「おう!よく来たな~!今日はこれをやるから手伝ってみるか?」って言ってくれるようになって、そんな日々を繰り返す中で車に関するいろいろなことを覚えていきました。 若い頃なんて生意気も言うじゃないですか? ガレージに入っているフォーミュラーカーを見てるだけでもテンションが上がったんですけど、まだまだ車に何かできるかといえば親方の仕事を見ていることの方が多くて、やっとワックスがけをやらせてもらったんですけど「魂が入っていない!」ってお叱りを受けることもありましたよ! 当時は「なんでだよ!」と思ったことも今ならすごくわかるんですよね。 みんな本気でその車を勝たせようと必死なわけですから。 自分が今のこの仕事をして、若い従業員と仕事をするようになってからわかりました。
このような整備工場を立ち上げる前はメカニックとして活動されていたのですか?
高校も自動車科でそこから自動車整備の専門学校に通っている頃に兄が富士フレッシュマンレースでドライバーとして出ていたので、その人脈がふえて別のチームからも手伝ってよと声をかけてもらうようになったんです。 別のチームの手伝いをしている時にN1耐久というレースに参戦したんですけど、僕らからしてみるとシビックがメジャーな時代に小山ガレージがイスズのジェミニで参戦していたんです。 しかもその車がN1レベルと思えないものすごいマシンメイクをしているんですよ。 それでこのチームすごい!と思っていたら、そのチームがレース系の雑誌に募集広告を出していて、連絡したら「春からメカニック募集するけど来る?」って声をかけていただいたんです。 専門学校の同級生たちは春からディーラーに就職が決まったりしていた中で、僕だけ学校を通さずにそのチームのメカニックになりました(笑) 正式にいうとそこが僕のプロとしてのメカニック人生の始まりかな?
そうするとファーストカーもかなり手をかけられたんでしょうね!
解体屋から3万で買ったサニーのバンですよ(笑) 当時のTSレースのように色々出来るし、日産のA型ってエンジンが好きだったんです。 手伝っているガレージや先輩から部品を譲ってもらってきたりしてました。 パッと見はサニーのバンでも、中身はレーシング仕様っていう(笑) 卒業式が終わって、そのサニーにちょっとした着替えとテレビ1つ積んで、下道を走って就職する横浜の小山ガレージに行って、そこのガレージの2階で寝泊まりしながら仕事をしましたね。
まさに運命のめぐり合わせを感じますね!
そうなんですよ。小山ガレージの小山代表は突き抜けた天才だと思いました。 メーカーの開発も手掛けていたこともあって、だからかなりマニアックな開発ができるんだと就職してから感じましたよ。 あまり口数の多い方ではなかったのですが、20歳そこそこの僕にもどんどんやりたいことをやらせてくれるんですよ。 ワンオフ物のパーツを作る設備なんかもあったので、みんなが帰った後もいじくり倒して覚えましたね~! 製図も手描きの時代だったし手取り足取り教えてくれる世界ではないので、朝になると小山代表に作ったものを見てもらって、ちょくちょくアドバイスをもらっていました。 本当にありがたかったです。
小山ガレージでの修行から独立されたのは何歳ごろですか?
24、25歳くらいだったかな? 独立したガレージにフラッとやってきたのが、今カーケアジャパンを一緒にやっている相棒の岡本なんですよ。
フラッとですか???
ウチを目指して来たわけではなく、ただ車が好きで大学に入ったばかりで初めての1人暮らしのアパートの近所を散策している時にたまたま通りがかったのがウチのガレージっていう(笑) 工場地帯の中でシャッターがちょっとしか開いていないガレージがあって、中にレーシングカーが入っていて、表にスカイラインが止まっていたというのがフラッと入ってきた理由みたいなんですけど、当時シャッターをちょっとしか開けていないのは「勝手に入ってこないで~!」みたいなオーラを出すためでもあったんですよ、それなのに「何してはるんですか~?」って関西弁で入ってきたんです(笑) 最初は冷たくあしらったんですけど、しばらく話をするうちに当時32スカイラインかMR-2に乗りたいんだよね~なんて相談を受けたんです。 それから1~2週間して黒のスカイラインでやってきたんですけど、来るなりエンジン音が不規則で明らかにおかしいんですよ。 本人もおかしいと思って中古車屋さんに言ったけど、そこのお店で紹介された修理屋さんでも「こんなもんだよ」なんて軽くあしらわれたらしいんです。 20歳くらいだったので、お金も苦労して買った車じゃないですか、こんなもんだよなんていわれたらがっかりですよね?そんな時に僕のことを思い出したらしく2度目はフラッとではなく、ちゃんとウチを目指してきてくれたんです(笑)
スカイラインの不調の原因はすぐにわかりましたか?
それは僕も同じエンジンの車に乗ってましたし、日産のRBエンジンに関してはグループAというレースの影響からか研究してましたのですぐわかりましたよ。 パーツも持っていたので付け替えてコンピュータも見てすぐ直せましたね! それでその時よくよく彼の話を聞いたら、スカイラインでサーキットを走りたいって言うんですよ!
腕の見せどころですね!
引退したレーシングカーについてたロールバーを加工して装着したり、ヘルメットやらレーシングスーツも僕のおさがりをあげて、シートも昔使ってたフルバケにして色々手をかけてサーキット走行会に出たりしていました。 何回かサーキット走行会に出たら楽しくてしかたがない!ってテンションが上がっちゃったんでしょうね。油温計も見ないで走って岐阜のサーキットで走っていてエンジンブローしちゃったんですよ! 夜中に積載車借りて自分のガレージまで持ってきました。 エンジンを僕が昔乗っていた車のエンジンをオーバーホールして乗せ換えて、彼も当時学生でお金なんかないから、ありあわせのパーツで組み上げてレースに出てましたね。 ちなみにその車は今でもずっと乗っているんですよ!
その車に当時の思い出がたくさん詰まっていますね!
大事にしてくれてますよ。なんだか知らないけど僕が作った車が好きみたいです(笑)
そんな岡本さんとはどのような仕事をされているんですか?
出張洗車というサービスをメイン業務として岡本が立ち上げました。 今はカーシェアリング車両のメンテナンスやショッピングモールでの洗車も展開していますけどね。 僕は先にHEATS SPEEDというガレージを30歳までやった後に民間車検の検査員もしながら週末はレースのメカニックとして飛び回っていたので、彼が起業して数年してから合流した感じです。 彼は本社はもちろん今では関西支社で通常のメイン業務を運営を見ながら、僕は横濱ファクトリーを主軸に技術面全てと各部の運営を見ながら、横濱ファクトリーで普通にメカニックの仕事もしています。 僕の人脈から海外にも同じ出張洗車の仕組みを展開しているんですよ。
海外はどちらで?
バンコクです。 今度はタイでも同じく暖簾分けで研修生が来るので、こちらの技術を覚えて本国で展開してもらう予定でいます。
一貫して車の仕事をされているんですね。
そうですね。車関係では本当にいろんな仕事をしたと思います。 検査員をしながらレースのメカニックをしていた時に、縁あってHPIという会社に加入するんですけど、そのチームのドライバーの先輩とは知り合いでそこの代表の人見さんは有名なレーシングドライバーだったんですよ。 時代の流れも合ったのでしょうがドリフト競技に本気で参戦するって人見社長が言い出した割りに成績が伴っていなかったから人見社長のジレンマを感じて、このチームの車を手掛けたんですけど、さすがにレースだけではないので会社の一員として入社するということはサラリーマンですから、会社の未来や販売促進にも努めなければならないのです。さらには開発部というセクションの責任者という立場でもあったのでね。HPIってパーツメーカーなのでこのままやり続けていると「ドリフトのHPI」というイメージができてしまうと思ってD-1の第一線からは手を引き、色んなジャンルの商品開発に没頭しました。
色んなレースに参戦されていたんですね!
ドリフトキングの土屋圭市さんとはずっとお世話になっていて、D1グランプリでは参加する側を退いてドリフト車両の車検を担当していた時期もあるんですよ。 レーシングカーのレギュレーションを守っているかどうか見るモータースポーツの検査員すなわちモータースポーツでは技術委員です。 メカニックだけじゃない仕事も多々しましたね。 しかも国際競技にも対応したAライセンスです(笑)。 数年前に土屋さんがD1を離れ新たに団体を立ち上げてからはドリフトをJAF公認競技にするために内部の運営にも携わっているんですよ。 それが今携わっている土屋圭市さんの「ドリフトキングダム」です。
JAFの国際技術委員資格を持っている方はたくさんいらっしゃるのでしょうか?
40代で持っている人は少ないんじゃないかな? ドリフトだけではなくFT86のナンバー付きのレースが富士スピードウェイであるんですけど、僕そこの検査員もやっているんですよ(笑) しかもそっちは陸運局側な視点(笑) ナンバー付きなので、帰りにその車で帰宅できるかどうかのチェックをしないと、ウィンカー壊れたままでは帰せないでしょう? 検査員といっても積載車に積んでもらうか、予備パーツで直してから帰ってもらうか、そんなチェックをする係。 とはいえ、検査員の仕事も僕がレースやってたから見極めが早くつくっていうところも大きいと思いますね。
多岐にわたる業務を手掛けていらっしゃると思いますが、検査、車検、メンテナンス、チューニングの他に販売はされていますか?
現在の在庫としては4台ですね。 お客さんが売れたら売ってほしいって言われているので委託販売で受けた感じです。 たまに自分がかっこいいって思う車両を仕上げてから売ったりしますかね(笑)
ここまで色々やって来られたと思うのですが、これからやってみたいことはありますか?
僕自身、営業でもなければフロントでもないので人によっては無愛想に思われることもあるとは思うんです。 でも弊社は車に関するいろんなことを手掛けている分、間口は広いと思うんですよね。 車に関するプラットフォームを一つ設けて、どの切り口から入ったとしても、車をより身近に感じてもらえるようになったら良いなと思っています。 洗車もそうですけど、お買い物の間に空気圧を見るとかカーシェアリング車両のメンテナンスもその一貫ですよ。

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